昭和53年10月13日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
人の難儀を助けるのが、また助くるのが出来るということが有り難いと心得て信心せよ、それが出来るということが有り難いと心得れるということなんです、ね。そこにいうなら信心の有り難いところがある訳です、ね。それは咄嗟にそこに、人が水に溺れておる、見たらすぐに咄嗟に助けようという気が起こる。だから、そういうものではない。信心の有り難いという事が、自分が助かり、そして人も助けてゆけれるということが有り難いと心得て信心せよと。
その辺が、信心で云う人が助ける事が出来るということが有り難いことではないかといわれるのは、一寸違う訳ですね。咄嗟のものじゃない。もう常日頃、人が助かるということを心に掛けさせて貰う、そしてそこに手を差し伸べてあげれるということが有り難いと心得てである、ね。ですからいつもそういう心の中に人が助けられるだけの用意が要り、準備が要るということなんです。またそういう用意、準備をさせて頂いているということが有り難いと心得させて貰える信心です。
そういう様な心掛けの人があるだろうか。それはね咄嗟にいわばこれは本能的にそういう心が動くでしょうね、人がそこに難儀をしとる、それを親切な心が起こる助けたい、助けれる力があるなら助けたいと思うのです。ところが信心でいうのはそれが有り難いと心得て、常日頃心の中になからなければならんでしょう。そのためにはどうしても、やはり自分が助かっとらなければ出来んと言う事になるのじゃないでしょうか。
昨日美登里会で、福岡の川上さんが発表しとられました。先日お大祭が近づいて来た。ご案内の、あれが沢山出来ておるから、自分の知り合いの方達やら、周囲の方達に、お導き用に、ご案内の用紙を使うて下さいと。使って合楽示現活動のよいチャンスだという風に頂いて早速二、三枚下さいと言うた。丁度、末永先生が座っとってから、「川上さん、あなたは十枚」というてから、十枚渡したというわけです。自分の心の中には、二、三枚位は人に配れる。
あの人この人、心に画いてから、二、三枚下さいと。したら「川上さん、あなたは十枚」。それこそ弾かれる様に、自分の思いの、いわば欠けておること、いうなら人を助けたい、今日の御理解でいうなら、助けたいという心の、余りにも小分なのに驚いた。そして、先生が、ああいうて下さったから、と思わせて頂いたら、不思議なことに、もう思いもかけない人に会い、そして思いもかけない人にお導きが出来、示現活動が出来たというお話しをしておられる。
ところが一番最後に失敗、失敗はせんけれども、神様のお試しというお試しを感じましたというお話しをしておられます。人を助けるという事に於ても、やはり神様が、本当にお前が助かっとらなければ、人が助けられない。只配るだけなら二十枚でも三十枚でもよか。けども本当に助かるためには、お前が助かっとらなければ、人は助からんぞというお試しの様な、一番最後に此処にもチョイチョイ参ってみえる方なんです。
そしたらいわれることが、あなたの様に熱心に参られると、まあその、熱心にというのが、一寸、まあいうなら信心気違いという意味のことをいわれたらしい。ですから「私が、金光様に参りよることは、人には言うてくれるな、私はあなたのような真似は出来ん。」云うならば、程度が知れる。金光様の信心やらしよるということが周囲の人達に知れるとね。なんか如何にも金光様を軽蔑した様な、しかも、実は大変な願いを持って、おかげも頂いておられて、またこれからもお願いなさらなければならない。
もう一番ああもう大祭ですね、一緒にお参りさせて頂きましょう、と言われるものと思うとったら、そういうふうなことがあった、ね。しかも十三枚か、十二、三枚か持って行かれて、一番最後のそこでです、もう本当にカツンときたけれども、そこが信心辛抱、ここが黙って治めんならんとこと思うて、もう帰る時に一言、こう言いました、と言う様なお届けを、ここでなさっておられて、そして昨日、美登里会でそのことを発表しておられました。
だから、人を助けることが出来るということは、自分が助かっとらなければ出来ないことが、皆さん分かるですね。もしね、あなたは、自分が頼む時だけは、やあやあいうちから、連れて参って下さい、そして親先生にお伺いしてきて下さい、お願いして下さいと日頃あがして言いよるけん、もう大体、合楽のことが分かり、信じておられると思うたら、「私が合楽に参りよるというようなことやらは、とても私はあんたの真似は出来ん、だから近所となりでもいうちゃくれるな」。
如何にも金光様の信心が程度が低い、ね。金光様の信心をしよるというたら、そういうように見られることが嫌だといわんばかりのことをいわれた時にです、いうならばそこでカツンと来た。そしてそこんところがね、自分自身が助かっておるという、どの程度に助かっておるかという、神様にお試しを頂いた様な気が致しますですね。やはりお導きというなら、まず、自分が助かっとらなければできない。
人に金で難儀をしておられるから、金を貸してあげたいと思うて、助けてあげたいと思うても、自分が持たなければ、思うばかりで出来ない様に、人を助けることが出来るということが有り難いという心、それが有り難い事ではないか。それを有り難いと心得て信心をせよ、ということを自分自身がこれ程し、ここまでは助かっておるということが有り難いことではないか。ちいと十三人じゃ無理じゃった、まあ十人位ならの助ける力なら、と言う様なものを感じられたのではなかろうか、と思うです。
もうまさしく私は、それは誰々さんじゃなくて、やっぱり神様だったと思います。折角、人が助かること、お導きさせて貰うということに心付かせて頂いて、しかも二三人と思うとったところが、あなたは十枚、とこういわれた時にです、神様が、やはり矢継ぎ早に、信心の稽古をさせようとなさる。そして、自分がいよいよ助かっておる程度までも、神様が分からせて下さる。それは様々な人があります。頭からいうならば反発をして来る人もありましょうけれども。
最近頂きます様に、そういう人ほど助かって貰わなければならない、という執念のようなものがそこから出て来なければいけない。気の毒だ可哀想だと、これ程合楽理念が分かっておられると思うとったら、合楽の信心がまだ分かっておられない、それこそ誇りこそなるのが、合楽の信心を頂いておるのが、程度が低い様に程度が低い様な、いうなら思い方から出来ていない人、これからその人が、本当の意味で助かって、「本当にいつぞやは大変にご無理なことをいうて済みません。
金光様の信心が、こげん有り難かこつは分からんな。」という時のことを思うて、やはり其処からのお導きが要るし、それだけのゆとりが要る。それだけのゆとりが要るということは、それだけ自分が助かっておるということになるのです。人の難儀を助けるということが出来るのは、有り難いことではないか。けども、信心でいう、人が助かるということは、ある意味で、その様に、いうならば難しいということ、もちっとこちらが力を頂かなければ。
昨日、最終的な話し合いが、竹中組が見えて、午前中からあっとります。最後に私説明を聞かせて頂いたんですけども、もう本当に、私は知りませんでしたが、この話が起こって、もう丁度二年になるそうです。随分、いろいろと、構想を練った上にも練って、やっぱり熟したという様な感じもします。そりゃもう、見事な構想のもとに、その代わりお金だけでも、建ち上がっただけで、五億円でしたかね、四億九千万円ですか、とにかく五億ということです。
これには、例えば水道とか電気とか暖冷房なんか、全然入っとらん。建ち上がっただけで。庭も入っとらん。何も入っとらん。只、建ち上がっただけで、それだけかかるという。一寸考えてみると、もう金もないとにそげなことに取り掛かって良いだろうかと思う様な気も致しますけれども、そのことを今朝お願いさせて頂きよったら、何回も何回も、観音力ということを頂くです。私は観音力とはどういう事か知らんけども、そしていわゆる八大力観音と、繰り返し頂くです。
信者にどん頼るなと、神様はそう仰っておられる気がしました。うちにはああいう信者がおるけん、こんな信者も居るけんと、信者にどん頼るなと。よういろんなまぁこれはこれは他の教会のことですけれども、記念祭があるといやあ、御普請があるといやあ、もう沢山の委員が出来ます。もうそれが自分一人一人が委員という自覚をさせんと、やはりお供えが少ないと言った様な事からじゃなかじゃろうかと思うんです。
うちでは、昨日は、正義先生と、秋永先生と二人です、出るのはね。今日は、十三日会ですから、皆にいろいろ発表やら相談やらがあるでしょうけれどもです。いうならば、信者にどん頼るなと。観音力で行け、と。八大力観音。それこそ人が助かるということにも、今申します、力が要りますように、何をするにも、やはり力を頂かねば出来ん。お互い、ここに一つ、本気でなんというですかねえ、もうそれこそ褌締め直して、という風に申しますね。
信心の帯を、一段と締め直させて頂いて、人が助かることのために、皆さんが助かることのために。いうなら、まずは自分が助かって、そしてそれが、示現活動参画ということにもなってくる。それには、力が要る。場合には試されることもある、ね。けども、そう云う試される時でも、落第することなしに、実意丁寧神信心を貫く心をもって当たっていく。本当に□□さんのお導き、誰々のお導き、自分は出来んでも、お導きをした人達が、御用の出来るといった様なおかげを頂ければ良いのです。
昨日、宮崎から、最近お導きを受けた方が、いろいろおかげを受けておる。そして今度の御大祭には、どうでも一つ宮崎から千徳という、千の徳というお酒があります。お供えをさせて頂きたいとの念願が、おかげで叶うた。皆さんのご迷惑はかけますけども、千徳というお酒を、四斗樽一樽、お供え出来ることが出来ましたから、十四日の日に車を出して貰って、お供え持って上がりますから、万事宜しゅうお願い致します。
例えばこれが、石川のおばあちゃんのお導きと仮定致します。石川さんその人は出来なくとも、お導きした人が出来るのですから、ね。昨日一昨日は、或る支部長さんから、末永先生宛に十万円送って来た。これはこちらの支部一同で、お米を五俵だけお供えして下さい。誰かが、もう本当に、お導きした人がですよ、自分は何も出来なくても、そういうお導きをした先に、思い掛けない働きというものが起こって来るのです。そのためには、やっぱり、私共が人を助けることが有り難いと心得て。
そのことが有り難いと心得させて頂けるだけの信心を頂かなければならんことが分かるでしょう。只お札配りの様に、只配っただけじゃいかん。それは腹の立つ様なことは言われるけども、それはそれで腹を立てとったんじゃ人は助からん。そこをね、やはり乗り切り押し切りして、進めて行ける様な信心を身につけたい。そのことが有り難いと心得てと、有り難いと心得えられるだけの有り難さというものを、自分が頂いとかなければ出来ないということであります。
どうぞ。